口元の笑み

利き腕以外でご飯を食べたり、お金を数えることが日常的にできる人は除く。

 

以前、中堅どころの歯科医師が出演している、たわいもないテレビ番組を観た時のこと。

その中堅どころの歯科医師は口元に少しだけ笑みを浮かべて「利き手だけじゃなく、反対の手も使って歯磨きをしましょう」と推奨していた。

 

「なるほど」

 

確かに今までは利き手以外で歯を磨くメリットなんてどうでもよかったし、無意識のうちに利き腕でそれをやることにいちいち抵抗感も何の不安もなかった。

 

要するにその中堅歯科医師はいつもと違うポジションが取れる、と。

特に右利きの人は、右の奥歯付近の汚れが取れづらいと言っていた。

確かに僕の治療は右奥歯が多い。

司会者とゲストタレントたちが頷き、ただ賛同する。

中堅歯科医師の口元の笑みは含み笑いに変わっていた。

 

それから数か月後だったと思う。

利き腕以外(僕の場合は左手)で歯を磨くというのは思っていたよりも難しかったし、

軽いストレスにもなったのですぐにやめてしまった。

でも、あの中堅歯科医師のことが何故か時々。

あの自信家特有の含み笑いが時々、よぎる。

 

電動歯ブラシを購入。

 

その能力は凄まじく、これは「敵わない」と小さな敗北感よりもずっと大きな感動を覚えてしまった。

人間の動きではあの回転および振動数はそもそも不可能だし、かなり隅々まで届いていると思う。

手は軽く握り、それを添えているだけに近い。

たとえば利き腕を故障していたとしても使える。

介護などではどうだろう。

一つ負担が軽くなるのでは?

 

これはあくまでも推測ではあるのだが「電動歯ブラシ」を使用している人は少ないのではないだろうか?

たとえば僕の両親もそうだし、職場の連中でもいない。

 

「歯磨きなんてコレで十分だよ」

「今までも、これからも問題はない」

 

確かに。それに対して反論もないし、特別な持論などもない。

僕は中堅歯科医師ではないのだ。

 

でも何故だろう。

明らかに「電動歯ブラシ」の方が優れているのは使用者はもちろん、未使用者も一度くらいは気にはなっているはず。

テレビCMなどでも一時期は頻繁に見かけたと思うし、その質も悪くなかったと思う。

 

自分が使用して一番に思うデメリットは、やはり「価格」である。

最初の本体一式もそうだが、歯ブラシヘッドの交換がなかなかの価格なのだ。

しかも当時は電気店でしか購入できなかった。

今となってはインターネットで購入できるし、ものによってはコンビニで見かけるものもある。

買いやすくはなっているな、と感じる。

 

購入を失敗か?と言われれば断言するが「正解」だ。

ランニングコストは多少掛かってしまうけれど、あの動きは「電動歯ブラシ」でしかできない。

 

そこまで必要?

歯磨きなんてさ。

口元の笑み。

人それぞれのライフスタイル。

 

生活習慣に新しい感動を感じられること。

もっと増えればいいと思う。

 

中堅歯科医師はどっちだ?

 

話はそれてしまうけれど、キシリトールがいかに歯によくて虫歯が減る、みたいな番組があった。

そこで困った顔を隠し切れないでいる歯科医師がいたことに、少し安心感があった(笑)

 

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始まっているのか?

おにぎりひとつとカロリーメイトをミネラルウォーターで流し込む。

 

無表情に、機械的に、作業の一環としての小さな食事。

絶望的な空腹状態にあるわけではないが、空腹状態は避けていなければならない。

何に対しても何かを本気で始め、さらにそれに対して結果を求めるのであれば、空腹・満腹感は避けるべきであると思う。

肉体も脳も圧倒的な満足感と絶望的な飢餓感の中では戦えない。

たぶんそれは科学的にも検証されているだろうし、

自分の「これまで」もそれにはイエスを出している。

コンディショニングの初歩ってところはコレか?

始める前が一番難しい。

たいがいのことは、始める前にはもう始まっているのだから。

 

伸ばす。

とにかく思いつく限りで体中のあらゆる部分を伸ばす。

腰、肩、腕、股関節、首。

ゆっくりと伸ばす。

呼吸は大事だな、とこの時実感する。

 

無理はするな。チャレンジをしろ。

無理しちゃ辛いだけで続かない。でもチャレンジは同じ辛さでも楽しいはず。

そう言い聞かせるようにして始めた自宅でのトレーニング。

失敗も挫折も何度もした。

「意地」だけで身の丈に合わない重量。

不適当な回数。

フォームが狂っている。

 

無知。ということ。

 

「本気でやっている」と自己満足をしていたものだから、

無知であるが故の失敗・挫折は精神をも打ち崩した。

原因がわからない。

誰よりも努力してきただろう?

アスリートでもないのに、かなり自分を追い込んできたんだ。

やればやるだけ結果は出るものではなかったのか?

負けなかった。休みなどいらなかった。

あいつらとは違う。

俺は間違ってはいない。

間違ってないって言ってほしい。

 

やり直しには勇気を伴う。

自分で自分を否定するのは辛い。

しかし自分自身にしかできないことでもある。

やるんだ。今すぐに。

なんだか自分が消えて行ってしまうような気がする。

 

あの時の始まりとは違う。

もう一度始めよう。失敗という経験と体験からをも得た知識と感覚を武器に。

本当に手に入れたかったものよりも、得てしまった?ものの方が大切になるなんて。

 

「失敗は成功のもと」と人は言う。

一つ加えたい。

「本気の失敗は」と。

でも成功ってなんだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お外の仕事

スマホのアラームが鳴る。

 

振動音が先なのかメロディーのそれが先なのか分からないが、時刻を確認し起床。

 

午前5時半。

 

眠る前と起きた時の景色は同じだ。

窓の外は少しづつだが動き始めている。

 

洗面関係を終えて、お湯を沸かし、ドリップコーヒーを淹れる。

スマホで今日の天気予報をチェックする。

いつの時代もそうなのか、風に関する情報量は少ない。

サーファー向けに海岸沿いの地域のラジオ放送などでは波情報などあるらしいのだが、

一般的なニュースでは余程の強風(台風や春一番など)以外ではあまり風に関する情報というのは少ない気がする。

雨や雪などとは違い、風の動向というか性質は細かすぎるのだろう。

一般的な2階建て住宅でも、上と下ではまるで違うように。

 

風は変わる。同じ街で暮らしていても。

 

汚れてもいい服。

汚れることでしかない服。

それでも毎日洗濯をして、きちんとたたまれたそれに袖を通すのは気持ちがいい。

 

肉体労働者の一日は短い。

そう感じるのはなぜだろうか。

推測ではあるのだが、職種的に「小さな危機」に直面する機会が多いからかもしれない。

転ぶ、当たる、はさまる、切れる、落ちる。

その中での作業。

そんな「小さな危機」たちが「大事故」につながることを我々(自分)は知っている。

なので無意識に集中してしまうのだ。時間の感覚は疲労でしか感じない。

肉体を不本意に活用し、神経をそこでしか使用を認めない。

そんな環境に10年以上も勤続する連中が「野蛮」に見えてしまう平成の終わり。

 

屈強。

 

彼ら(あたり前だが自分も含め)は屈強なのだ。

誰にも称賛されることもなく、むしろ疎まられるだけの屈強。

 

ケータイがスマホに変わろうと。

車が電気で走ろうと。

ルンバが自動的に部屋中を掃除しても。

ツールが増えたのに人間関係が希薄になったとしても。

 

彼らは(もう言いたくもないけど自分)スコップを使い穴を掘る。

雨が降ろうがスマホだろうがルンバ、希薄になったとしてもスコップを使い穴を掘る。

粉塵が舞う中、自分の手で「廃棄物」を選別する。

 

屈強。なのか?

野蛮?そうかも。

野生に品位を感じるのか?風も感じないのに?

 

いろんな意味で「強さ」というのが排除されている気がする。

強さの象徴みたいなものは、もはやただ野蛮でありコンプライアンスだのパワハラだので居場所はないのだ。

 

日焼けした肌で汗にまみれ、くわえタバコ一服など公害。

危険が生じても怒鳴ってしまっては損害賠償。

男の傷は勲章から「キモイ」に変換。

 

強くありたい。

 

今日は強い雨にあの子、濡れないといいのだけれど。