お外の仕事

スマホのアラームが鳴る。

 

振動音が先なのかメロディーのそれが先なのか分からないが、時刻を確認し起床。

 

午前5時半。

 

眠る前と起きた時の景色は同じだ。

窓の外は少しづつだが動き始めている。

 

洗面関係を終えて、お湯を沸かし、ドリップコーヒーを淹れる。

スマホで今日の天気予報をチェックする。

いつの時代もそうなのか、風に関する情報量は少ない。

サーファー向けに海岸沿いの地域のラジオ放送などでは波情報などあるらしいのだが、

一般的なニュースでは余程の強風(台風や春一番など)以外ではあまり風に関する情報というのは少ない気がする。

雨や雪などとは違い、風の動向というか性質は細かすぎるのだろう。

一般的な2階建て住宅でも、上と下ではまるで違うように。

 

風は変わる。同じ街で暮らしていても。

 

汚れてもいい服。

汚れることでしかない服。

それでも毎日洗濯をして、きちんとたたまれたそれに袖を通すのは気持ちがいい。

 

肉体労働者の一日は短い。

そう感じるのはなぜだろうか。

推測ではあるのだが、職種的に「小さな危機」に直面する機会が多いからかもしれない。

転ぶ、当たる、はさまる、切れる、落ちる。

その中での作業。

そんな「小さな危機」たちが「大事故」につながることを我々(自分)は知っている。

なので無意識に集中してしまうのだ。時間の感覚は疲労でしか感じない。

肉体を不本意に活用し、神経をそこでしか使用を認めない。

そんな環境に10年以上も勤続する連中が「野蛮」に見えてしまう平成の終わり。

 

屈強。

 

彼ら(あたり前だが自分も含め)は屈強なのだ。

誰にも称賛されることもなく、むしろ疎まられるだけの屈強。

 

ケータイがスマホに変わろうと。

車が電気で走ろうと。

ルンバが自動的に部屋中を掃除しても。

ツールが増えたのに人間関係が希薄になったとしても。

 

彼らは(もう言いたくもないけど自分)スコップを使い穴を掘る。

雨が降ろうがスマホだろうがルンバ、希薄になったとしてもスコップを使い穴を掘る。

粉塵が舞う中、自分の手で「廃棄物」を選別する。

 

屈強。なのか?

野蛮?そうかも。

野生に品位を感じるのか?風も感じないのに?

 

いろんな意味で「強さ」というのが排除されている気がする。

強さの象徴みたいなものは、もはやただ野蛮でありコンプライアンスだのパワハラだので居場所はないのだ。

 

日焼けした肌で汗にまみれ、くわえタバコ一服など公害。

危険が生じても怒鳴ってしまっては損害賠償。

男の傷は勲章から「キモイ」に変換。

 

強くありたい。

 

今日は強い雨にあの子、濡れないといいのだけれど。